結婚と人権意識とその先にある実践

 結婚については「LGBT」や「夫婦別姓」のように人権問題として捉えがちです。もちろん、それも大切なことですし、僕個人は、夫婦別姓同性婚も(法律改正等の手続き的な煩雑さをさておくならば)「シンプルに個人の選択の問題」だと思っているので賛成です。

 

 しかしながら、そもそもどうしてそういう「選択」をするのかというと、ざっくり言ってしまえば「幸せになるため」のはずです。だとすれば、結婚についての人権意識の高い人は、ど真剣に「幸せな夫婦のあり方」についても検討し、それを体現し続けることも「選択」をした人間としての「責任」の一つだと考えてもよいのではないでしょうか。

 

 本来、物事というのは「選択」をした後に「実践」があります。「実践」がなければ、うまくいきません。言ってしまえば「選択が2割、実践が8割」です。幸福感につながるのは選択ではありません。実践です。責任というのは、畢竟「何をして、何を得たのか」ということに尽きます。

 

 実践の伴わない選択に価値はありません。「隗より始めよ」ですから、まずは自分が結婚という「選択」をした後に「実践」を積み重ねて、こんなに幸せになったのだという「実感」を更新しつづけていく必要があります。その先に、そういう人生を「選択」することさえできない人がいるだなんて、そんなの理不尽だという義憤が芽生える。

 

 そこまでいったら「ホンモノ」じゃないか。あとは、政治や法技術の問題になりますが、そこまで行き着くだけでも大変なことなのだと、僕は思います。